何年もの間、私は自分の肌の中で客人のように感じていた。母のサリー――絹の擦れる音、床に広がる色とりどりの銀河――が大好きだった。父の着古した綿のシャツ、小さな手の中で感じる父のセーターの丈夫な編み地も愛おしかった。その愛は本物だった。しかし、鏡もまた本物だった。そして、そこに映る静かな戦いもまた本物だった。
そして日本。それは天啓というより、ゆっくりと深呼吸だった。ここでは服は私の体に何も求めず、ただそこに存在するだけだった。ゆったりとしたシルエット、上品な慎み深さ、美しく幅広い均一性。よく見ると、そこには小さな、個人的な反抗が満ち溢れていた…それは、私が必要としていたとは知らなかった、立ち止まる時間を与えてくれた。初めて鏡の前に立ち、解決すべき問題ではなく、私自身を見つめた。
しかし、その静寂の中で、私はある種の音が恋しくなっていた。インドの布の、生き生きとした、質感と感情に訴える音。ジャムダニの軽やかな手触り、木版画に込められた物語、手織り綿の息吹が恋しかった。衣装を着るだけでなく、自分の伝統を肌で感じられたことが恋しかった。
このブランドはまさにその翻訳です。これは、私がここで見つけた安らぎが、私が残してきた魂と織り合わさったらどうなるだろうかという、非常に個人的な問いへの答えを見つけるための試みです。
それは大音量の融合ではなく、ささやき声のようなもの。ミニマルでシンプルな解釈。インドの手仕事による深遠な技巧を、物理的な空間であれ、生活の中であれ、日本人の空間感覚に合わせて仕立てたのです。
二つのシルエットが出会う場所
着物、袴、ドーティ、サリーといった、ドレープし、流れ、体に合わせて変化する数多くの衣服の中に、私は共通の真理を見出しました。それらは自由の守護者なのです。ドレープし、包み込み、身体に動きと呼吸の尊厳を与えるのです。これこそが、私が今追い求める哲学です。「着飾る」ことではなく、「存在する」こと。
私たちの服は、この気楽さという基盤の上に成り立っています。ジャムダニの軽やかな詩情、カラコットンのしなやかで誠実な風合い、ヒマラヤウールの柔らかな精神といった、私の記憶に残る魂のこもった生地を使いながら、私たちはこの地の生活のリズムに合わせて裁断しています。電車のリズム、自転車のリズム、静かな朝のリズム、そして長い散歩のリズムです。
胡弓パンツ:個人的な工芸品
私たちの「胡弓パンツ」は、まさにその真髄を体現していると言えるでしょう。 凛とした羽織りのシルエットと、サリーのドレープ感の多様性、そして着こなしやすさを兼ね備えています。 隠し調整機能で、あなただけの一着に。 日々の生活、そして歳月とともに、あなたと共に進化していくようデザインされています。 まさに私の理想、地に足のついた心地よさと、静かな贅沢さを体現したパンツです。
この対話は、すべての作品に息づいています。アチャカンのラインを借用しつつ、甚平の気楽さを備えたチュニック。サリーのパルーの精神を、純粋で整然とした静謐さの中に閉じ込めたシャツ。
遺産を新たな視点で見る
私たちの仕事は、新たなレンズを通して過去を振り返る繊細な行為です。糸が絵になるジャムダニの驚くべき隆起織りを目にし、日本人の「間」、つまり余白を捉える目でそれを鑑賞します。ラジャスタンの木版画の喜びに満ちた生命力を見つめ、それを「渋み」の控えめな優雅さと調和させようと努めます。
工芸を変えるのではなく、異なる視点で耳を傾けることです。ジャムダニの幾何学模様を西陣織と同じ敬意をもって読み解くとしたら、何が起こるでしょうか?日本の小紋柄の微細な繰り返しと、インドの版画の大胆な物語が出会うとしたら?織り機という自然のキャンバスの上に、調和のとれた新しい言語が浮かび上がるのです。
贅沢とは人間の手から生まれる
日本は私に、不完全さの中に美を見出すこと、侘び寂びを教えてくれました。この感性が、私がずっと愛してきたインドの手織りの技術を改めて理解させてくれました。紡がれた糸のわずかな変化、植物染料の微妙なムラ…これらは欠陥ではありません。それは、その織物の特徴です。布に宿る人の手の温もりなのです。
これこそが、私にとって真のラグジュアリーです。作り手を大切にするからこそ、サステナブルなのです。私たちは手織りのコミュニティと直接提携しています。彼らを刷新するためではなく、彼らの素晴らしい技術が新たな、そして永続的な響きを見出すのを支援するためです。これらの作品の一つを選ぶということは、生きた文化を未来へと伝えていくことを選択するということです。
突き詰めれば、これは単なるブランドではありません。古来の不快感に対する私の答えです。日本の心地よさとインドの魂が織りなすもの。居心地の悪さを感じ、自分だけの完璧なフィット感を夢見るすべての人々のためのものです。
それは翻訳の中に見つかる美しさです。
